それでも生きる。

デイサービス勤務の理学療法士がゆるくて、ふかーい、人生哲学を発信していきます。

才能とはどこから来るのだろうか。

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昨日のとあるテレビ番組で、廃れた商店街のシャッターに、

 

絵の得意な芸能人がスプレーで絵を描いて、

 

街を活気づけようという企画をやっていた。

 

その絵は、全部、独特の感性があって、 

 

見た人は『気持ち悪い』と思われるような絵で、

 

でも、その気持ち悪い中に伝えたい何かを象徴するような、

 

その人にしかない感情が

 

絵という媒体となって生み出されていた。

 

どうして売れている芸能人たちは、こんなにも、話すという、スキルだけじゃなく、

 

人を感情を揺さぶるようなするスキルを兼ねそろえてるのだろう。。。

 

才能とは何だ。。。

 

才能とは何だろうか

 

才能という言葉はWikipediaで検索しても出てこない。

 

Goole先生の辞書によれば

 の解説

物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。「音楽の才能に恵まれる」

「才能を伸ばす」「豊かな才能がある」「才能教育」

 

一番知りたくなかった、やめてくれ。。。

『生まれつきの能力』というワード。。。痛い痛い痛い。

 

過去の自分を振り返ると

 

過去の自分を振り返ると、才能なんてたいそうなものなんてなくて、

 

今でもそれは同じ、自分との葛藤で、

 

思春期からも常に挫折と、悩みしかなかったように思える。

 

小、中、高と11年間、野球を続けてきたけど、

 

中学、高校はチームは強くて、

 

私自身は、レギュラーになることはなかった。

 

出ても途中出場で、

 

高校最後の夏の大会は、

 

試合の終盤に、TSUTAYAのランキング一位のDVDが売り切れてるから

 

その代わりとして借りるDVDみたいな、

 

守備固めの起用をされていた。

 

私自身、自分が守備に自信があるようなわけでもなく、

 

でも、取柄はそこしかなかったから。

 

上を見上げると、チームでも自分よりうまい選手はたくさんいて、

 

自分なんかがという感覚、劣等感のなかで試合に出ていた記憶がある。

 

自分の知っている能力と周りの求める期待との間とのギャップに

 

『ミスをしないように』

 

重い十字架を背負わされているような想いで、

 

最後の公式戦に出ていたような気がする。

 

才能とは人一倍時間をかけてやってきたものによって、生まれてくるのではないだろうか。

 

小学生のころに野球は始めたころが一番楽しかった。

 

野球そのものが楽しかったし、うまくなっていくという感覚に

 

病みつきになっていた、と思う。

 

家の近くの公園で兄弟、近所の友達を集めて、

 

学校から帰ってきて、夜まで没頭していたことを今でも覚えている。

 

毎日のように外に繰り出しては、ボールをなくしたり、車にぶつけたり、

 

近所の人たちに叱られながらもやっていた。

 

でも、中学の野球部ではいじめを受けた、そして、

 

監督、親に3年間叱られ続けて、なにもかもが嫌いになった。

 

自分の好きだった野球をしているという感覚ではなく、

 

野球を取り巻く『環境』を、それを取り巻く『人間たち』を嫌いになった。

 

それでも、絶対にやめようと思っていた野球を、

 

高校でも続けた。つらい練習でも、

 

好きとか、嫌いとか、楽しいとか、楽しくないからとかではなく、

 

やること自体が自分自身の目的になっていたんだと思う。

 

今では普通の人よりは野球はうまいと思うし、

 

野球をすることがなぜか、楽しいという感覚が心の底から湧き出ている。

 

これが、一種の才能というものなのだろうか。。。

 

『才能』とは、没頭するから生まれるものではないのか。

 

自分の感情に従っていいし、楽しいからやるし続けられる。

 

でも、その先には、必ず、辛い、苦しいが待っている。絶対に。

 

その苦しい、辛い、やりたくない、を乗り越えたいと思うのか、やめるのか、

 

それが自分の才能になっていくんだと思う。

 

多分、芸能人の持っている才能たちのなかにも

 

葛藤があって出来上がっているのかもしれない。

 

才能とは後天的なものであってほしいという願いを込めて。