それでも生きる。

デイサービス勤務の理学療法士がゆるくて、ふかーい、人生哲学を発信していきます。

生きるとは時間以外の単位

 無料筆文字素材:24時間限定タイムセールのダウンロードページです ...

 

いわきは、気持ちの良い青空で、

 

愛犬のランちゃん(トイプードル)と共に

 

外への散歩。

 

普段は親父が散歩に行くことが多く、

 

コロナウイルスの影響で、

 

いつもの習慣である、ジムでの運動もできないため、

 

気分転換も含めて、私が外への散歩をしてみる。

 

私が、きれいな桜が見える公園にいきたいのに、、、、

 

 

 

 

 

ついてこない。。。

 

 

 

 

 

綱を引っ張っても、私の誘導する、行きたい方向に、、、

 

 

 

 

 

こない。。。。。

 

 

 

5分くらい、引っ張っても全然ついてこない。。。

 

 

 

だから、

 

無理に誘導するのをやめて、ランちゃんの気の赴くままに、綱を緩めて

 

行きたいところへ、好きなように行ってもらうことにした。。。

 

 

 

興味のある所へ、いきたいところへ、走る姿は凛としていてキラキラしている。

 

綱を緩めて、行きたいところに、行かせてみる。

 

急にスピードをあげて、走る。立ち止まることなく、飼い主のことを気にせず、

 

なぜだか、笑っているようにも見えて、

 

うらやましい感情も芽生える。

 

歩道を超えて、車道に出そうになったとき、つなを引いてあげる。

 

これ以上は危険だからだめだと、

 

つなで知らせる。すると方向を変えて、また走り出す。

 

そして気づいたらまた家に帰ってきていた。

 

導くという言葉があるけれども、、、

 

『導く』という言葉の中には、個の好奇心や興味の赴くままに、行動をさせてあげる意味が含まれているのではないのだろうか。

 

自分で選んで好きなことをやっている人たちが、うらやましいと思うし、

 

一番輝いて見える。

 

でも、これ以上は身の危険があるから駄目だよ。と注意してあげている人がいる。

 

子供が『こんなことをやりたい!!』と言ったときに

 

頭ごなしに否定をする親をよく見るけども、

 

良いとも思うけど、それは、親の都合の良い人間に仕上げられているようにも思える。

 

私は親ではないし、子供を育てた経験はないけども、

 

 

それは、私の仕事であれば、

 

治療者対患者

 

治療者対利用者

 

と同じような感覚なんだと思う。

 

生きるとは時間以外の単位だ

 

利用者A『一人で隣人に会いに行きたい』

 

利用者B『花壇に花を植えたい』

 

でも、、、

 

利用者Aへ

『転ぶかもしれないからだめ(転んだときは良いって言った私の責任になるから)』

 

利用者Bへ

『膝に負担かかるからだめ(痛みが悪化したら、良いって言った私の責任になるから)』 

 

結局は自分、自分、自分、、、、

 

別に転ぼうが、膝が痛くなろうが、最悪死のうが、

 

やれそうな方法論を提案してあげて、

 

本人がやりたい、やってみたい、と思っていることはやらせて良い。

 

と思っている自分がいる。

 

別にけがをしようが最悪、死んでしまっても、

 

本人がやりたいと思っているものは私はやっていいと思う。

 

 

 

『僕もどれだけ遺せんだ ねぇどれだけ生きれんだ 時間以外の単位で』

~RADWIMPSより~

 

 

 

 

生きている時間が長いから、幸せになるもんじゃない。

 

生きている間にどれだけのことを行ったかが幸せなのかもしれない。

 

 


RADWIMPS - 'I' Novel [歌詞付き] [Sub Español] [Romaji]

 

そんなことを思いつつ、、、

 

これ以上は危険だから駄目だよと注意している自分は時に、本当に自己中心的で

 

自己保身的な、人間だと、とつくづく感じる。