立ち止まって、立ち止まって、すすむ。
立ち止まっている瞬間が一番怖い。
なにもしていない瞬間に恐怖心を感じることがある。
『自分はなんのために生きているのだろうか』と。
やりたいことのためにはやらなきゃいけないことがあって、
でも、やらなきゃいけないことをやっているのは辛いと感じる。
辛くて、そのやらなきゃいけないことを投げ出したときに、
行きつく先は、
『自分にとっては本当に目標としていることはやりたいと思っているのか??』と。
考えるサイクル。
自問自答しても、
それが正解なのか、不正解なのか、
その先がイメージできなくて、
わからなくて、
でも自分でやると決めたことだから、やり遂げようと、
自分に言い聞かせる毎日で、
その決めたことを、やめると多分、
好きな子に振られた時のような、虚無感に苛まされて、
結局は机に向かって、やり続ける自分がいる。
努力することに意味はあるのか、そもそも自分は頑張っているだけなのか
中学生の時は、高校受験の志望校に落ちて、私立のすべり止めの高校にも落ちた。
これが自分にとって、頑張ること自体への価値観が変わった。
頑張っていても意味がない、というネガティブなもので、
思春期の自分にとっては、大きく、根強く、残っていて、
そのマインドが今の自分を作っている。
だから、チャレンジしている自分に、もう一人の中学生の自分が、
『やってもその先の自分は変わらないよ、意味ないよ』
って、ささやいているんだと思う。
努力する理由は過去の自分を変えたいという想いだけ。
頑張ることと、と努力することの明確の違いが判らなくて、
頑張ること、努力することに意味がある、とか、意味がないとか、
未来に、安定とか、不安定とか、お金がたくさんもらえるからとか、
そんな、表層的な、ぬるい牛乳の膜みたいな、そんなことではなくて、
自分にとってそれは、自分の手で、
中学生のころの自分を土俵の外に追い出すことができたかどうか、が、
自分にとっての幸せなことなのかもしれない。
そもそも、努力すること自体に意味はなくて、
大事なことは、自分のチャレンジしていること達成できたか、どうかで、
そして、
辛いかもしれないけど土俵際でしのいでいることに面白さを感じれるのかもしれない。
それは決して、
チャレンジしていることは別のことでもよくて、
できないことをできるようになることに面白さがあるんだと思う。
~自分だけしか歩めない大事な道ではないか~
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。
松下幸之助 ”道をひらく”